今から4ヶ月以上前のことである。
ドイツがロックダウンに入る前の3月11日でのモニカ・グリュッタース文化大臣によるコメントを覚えているだろうか。
新型コロナの感染拡大を阻止するために隔離状況をつくりだすことは、アーティストにとっては仕事そのものが目の前からなくなってしまうことを意味し、それを精神面、金銭面でいかに支えていくかを早い段階で表明したものである。
その内容は以下の通りだ。
「非常に多くの人が今や文化の重要性を理解している」
と、グリュッタース大臣は切り出した。
「私たちの民主主義社会は、少し前までは想像も及ば
クリエイティブな人々のクリエイティ
私たちは未来のために良い
そのため、
と述べた。
文化機関や文化施設を
これと日本の文化庁長官のコメントを比較すると悲しい気持ちになってしまうのだが、今回は日本政府の不甲斐なさについてどうこういうつもりはないし、今さらどうしようもない部分はある。
それよりも、日本においてもドイツの文化大臣が放った言葉の意味を深く理解して共有できることについて考えることにしたい。
さて、アーティストはこのような時代の変革期において新しいものや考えかたを作り出す人である。
これまでになかったようなコンセプトを表現したり、言葉として言い出せないことや現実をするどく切り取って表現する人たちである。
または、自粛期間に意図せず作られた時間の中で新しい表現方法を見つけたり、新しいアイデアを身に付けたりするのかもしれない。
そのような変革者たるアーティストではあるが、残念ながら金銭的には一定期間は何も収入を得ることができなくなる。
大手企業の社員や公務員であれば、組織が金銭的に守ってくれるが、個人事業主であるアーティストにとっては後ろ盾となってくれる資金的な支えがあるわけではない。
こんなときだからこそ、アーティスト自身が生きる糧になるべきであると考えてアーティストの輝きが失われないよう支援するのである。
アート活動が生命維持に不可欠と言い切るのと、アートを不要不急であると言い切るのとは180度反対の意味をなす。
なぜ、アートは生命維持に不可欠であるという言葉になったのかを考えてみたい。
人間が他の動物と違うのは食べて寝るだけの生活の繰り返しでは生きていけないからだ。
人間だけが文化を楽しみ、伝えたいコンセプトに共感し、造られた作品に感
文化は心の安らぎや癒しのためだけではなく、それなしには生きていけないものだということに我々は普段気が付かない。
以前はスマホがなくても人とのコミュニケーションは図れてきたし、飛行機や新幹線がない時代も時間をかけて人と会うことはできた。
技術の発展によって人間の生活は便利になったことは事実であるが、利便性はあくまで手段であり目的は文化的な楽しみの享受なのだ。
コロナ期に不便な生活を強いられる中で、人間の生存維持に必要な文化を実現していくのがクリエティブな人たちであり、彼等は組織による金銭的な安定を得ない中でリスクをかけて世の中を変えていこ
それに対してリスペクトする気持ちが世の中にあってほしいと思う。
アーティストの中には表現活動が好きでやっているだけだという人も多いだろうが、それだけでなく、その一部が人間の生命維持のために役立っていると自負してもよいだろう。
未曾有の危機においては不要不急だと思われたアートであるが、それは短期的なものの考え方であり、アート活動を止めてしまうことの代償は長期的な観点からは致命的だ。
これから新しい世界を作っていくアーティストの活動を一度も止めることなく、動かし続けていくことが大事である。
さて古い話になるが、1930年代の世界恐慌のときにニューディール政策の一環として行われた米国の芸術家支援施策である連邦美術計画(Federal Art Project)は、数々のアーティストがヨーロッパから米国に移住して大量のパブリックアートを作ることで彼らの生活を支えることとなった。
これを機会にジャクソン・ポロック、デ・クーニング、ベン・シャーンといった作家が力をつけ、ユダヤ人作家による新しい抽象表現にもつながった。
アーティストの活動は息を吹き返し、それが現在の米国のアート市場の基礎になっていることを理解すれば我々がやれることは自ずと分かってくる。
一番よいことは税金をばらまくことではなく、アーティストのキャリア形成をも含めた支援であり、それは作品を買うことによって実現できるものなのだ。
アーティストはコロナ期に霞を食べて生きていくわけには行かず、お金を介することで新しいアートが実現し、それで私たちが作品を鑑賞できていることを忘れてはならない。