世界が親、色が友
「世界が親と思いなさい。」
成田空港で母にそう送り出され、15歳の少女は単身イギリスへ飛んだ。
渡辺富美子は、千葉で生まれ、福井の豪雪の中で育ち、そしてロンドンでアートの道を歩み始めた。
普通の中学生が進学先を選ぶ頃、彼女は遠い異国で「美術を学ぶ」ことを決意したのだ。
美術の道へと背中を押したのは、あるドイツ人画家だった。
彼女の絵を見た画家は、「すぐにアートを勉強しなさい」と強く勧めた。
まるで、その色彩のセンスが偶然の産物ではなく、必然的な才能であるかのように。
イギリスでの生活は、異文化との衝突と発見の連続だった。
美術の基礎を学びながら、彼女は世界中を旅し、ヨーロッパの街角で人々の孤独や葛藤に触れた。
彼女の心に刻まれたのは、「現代の人間像」を描くというテーマ。
どこか不完全で、傷つきながらも、美しい何か。それは、ピーター・ドイグやデイビッド・ホックニーといった色彩の魔術師たちの影響を受けながら、彼女の作品へと昇華されていく。
ロンドン芸術大学を卒業後、彼女は京都へ渡り、黒谷和紙の工房で手漉き和紙の技術を学んだ。
手仕事で作られる和紙の質感、そこに乗る顔料の深みは、彼女の色彩表現に新たな層を加えた。「世界が親」であったなら、色は彼女の最も信頼できる友となったのかもしれない。
絵具の偶然、心の必然
「思い通りにいかない。」
これは、彼女の制作において重要なキーワードだ。彼女はまず、スケッチや写真をPhotoshopで組み合わせ、イメージを作る。しかし、その通りに描こうとしても、いつの間にか別のものが生まれてしまう。
例えば、彼女が描こうとしたのは晴れた夜景だった。
しかし、色を重ねているうちに、「なんかこの空の色、雨模様だな」と思い、雨を描くことにした。すると、そのうちに雪が降りはじめ、いつの間にか冬の風景へと変わっていた。
まるで、天気が彼女の筆を握っているかのように。
これは偶然の産物だろうか? いや、むしろ彼女は「偶然が導く必然」を知っているのだ。
絵具を霧吹きで滲ませたり、ボロ布で拭き取ったり、時にはヤスリで削る。
そうやって「破壊された部分」と「整えられた部分」がせめぎ合うとき、彼女の絵は完成する。
人間の感情のように、整然とはしていないけれど、どこか心に響く。それは、旅の中で見てきた世界の姿そのものなのだ。
彼女は自分の古いスケッチを「ぬか床」のように寝かせると言う。
そして、時間が経った頃に掘り返すと、新しいインスピレーションが生まれる。発酵したキュウリのように、熟成されたスケッチは、また違う風景を見せるのだ。
作品を手に入れること、それは世界を持つこと
渡辺富美子の作品を見ると、まるで旅をしているような気分になる。
ロンドンの街角、福井の雪、京都の和紙。どれもが彼女の中で混ざり合い、一つの風景を形作っている。
彼女の描く世界は、どこか曖昧で、揺らいでいる。しかし、それがまさに私たちの生きる現代の姿ではないだろうか。はっきりとした正解はないけれど、確かにそこに存在するもの。
アートを買うという行為は、ただの消費ではない。
それは、一つの物語を手に入れることだ。彼女の作品を持つことで、あなたの部屋に「世界の記憶」が飾られる。
そして、それを見るたびに、雨のち雪、時々晴れ——そんな彼女の「曇天の向こう側」に思いを馳せることができる。
そう、渡辺富美子の作品は、世界を旅するチケットのようなものなのだ。