令和の時代になってもアートを高尚なものだと考える世代はかなり上の年代だと想像するかもしれないが、実はそうではない。
30~40代でも、アートというと小難しいもので理解しがたいものであると認識している人がいかに多いことか。
そういった日本ではあるが、意識が変化する萌芽は始まっているといってよいだろう。
アートは歴史的に見ても明らかに大衆化に向かっている。
かつてアートは一部の富裕層や文化人によってのみ楽しまれ、支えられていたが、時が経つにつれその傾向が大きく変わってきている。
この変化は、アートの持つ可能性が広がり、多様な観客層に受け入れられるようになった結果なのである。
アートのブランド化を狙って高尚なものに祭り上げようとするギャラリーもあるが、世の中のトレンドとは正反対だ。
ぱっと見ではなんだかわからないコンセプチュアルアートを扱うこと自体は何も問題がない。
問題は、そのわかりにくい作品をどこまで大衆に対してわかりやすく伝えるかなのだ。
コンセプチュアルなアートはしばしば理解を難しくする要素を含んでいるが、アーティストはもちろんそれを媒介する業者は新たな伝達手段やコミュニケーション戦略を用いて、その作品の核心をより広く共有しようと努めなければならない。
それができなければ、作品が世の中に広がることはないし、一部の人にだけ理解される作品は決して歴史には残らない。
アートが持つ力は、その普遍性や時代を超えたメッセージ性にあるからだ。
そもそもアートがほかの生活用品などと違うのは有用性がないことであり、その中で価値を示そうとすると、作品の価値がわかる一部の人に理解されるだけでは到底難しい。
現代のアート市場では、美的な価値だけでなく、作品の持つ歴史的、社会的な背景や作者の精神的な状況などが、その作品の価値を決定する要因として重要視されている。これにより、作品の背景や文脈を理解することで、より深い鑑賞が可能になっている。
誰にでもわかりやすいアートを作ることが正しいのではなく、コンセプト自体は複雑だったり、ぱっと見てわからないものであっても、それを分かりやすく伝える工夫が必要なのだ。
近年ではオンライン上での作品紹介などが充実し、より多くの人々がアートに触れる機会が増えてきている。これにより、従来理解が難しいとされてきた作品も、多角的な情報提供や解説を通じて理解される可能性が広がっている。
分かりにくいものを分かりにくいままで煙に巻くタイプの作品は、これからは凋落の一途を辿るであろう。
現代のアート市場では、透明性やオープンネスが求められ、作品の裏にあるストーリーや制作過程が、その作品自体の魅力の一部として評価されることが多い。
アーティストと観客の間におけるコミュニケーションが、作品の持つ価値をより高める一因となっている。
どの時代においてもアートは大衆によって支えられており、それを買うかどうかとは別問題なのだ。
現代では、ソーシャルメディアやデジタルプラットフォームを活用して、アーティストは直接ファンとつながり、作品を紹介する機会を得ている。
これにより、ファンの数が増えれば、それだけ作品に対する関心や支持も拡大し、作品の市場価値にも影響を与えることができる。
例えば、あるアートが大衆的に人気があれば、その大衆の数が多ければ、実際に作品を買うことのできる実人数は増えることになる。
また一部のコレクターにのみ買い支えられたアーティストは、その人たちが他のアーティストに目を向け始める瞬間に急に売れなくなることがある。
したがって、アーティストもある程度売れるようになったからといって安心できるわけではなく、常に大衆に向けて発信を続けてファンを増やしていかない限りは、いつ食いっぱぐれるか分からない狭い世界なのだ。
まだ見ぬファンに常に目を向けて分かりやすく作品を伝えることの重要性は、アートの大衆化が進むとますます強くなっていくだろう。
近年のアート市場の変化は、アーティストと観客との距離を縮め、作品の多様な価値を広く認知させる機会を提供している。これにより、アートは単なる芸術作品にとどまらず、社会や文化の中で重要な役割を果たし始めているのである。