今年3月に東京藝術大学を卒業したばかりの深澤雄太さん。
9月6日から24日まで、タグボートの阪急メンズ東京のギャラリースペースで個展が開催されます。「nostalgia」という個展タイトルの通り、日常の一場面を切り出したような深澤さんの絵画作品を見るとどこか懐かしい気持ちになります。
一方で「火」や「窓」など、これまでの作品とは少し趣の違う大作も今回の個展で発表されます。
深澤さんが大事にしているのは心の揺れ動きで、作家自身の心とその揺れ動きが取り込まれた作品を見た人の心の動き、さらには見る人からのフィードバックを得た深澤さんの心というように、展示空間を介した心の交流を特に意識しているようです。
個展に向けた意気込みや制作意図などについて、深澤さんのアトリエでのインタビューの概要を以下に紹介します。
-今回の個展のテーマ「nostalgia」はどうやって決めたのでしょうか。
英語一単語でタイトルを考える中で、僕の作品を見て自然と芽生える感覚、見た人の共通認識だと思った言葉を選びました。実は他にも候補があって、当初はemotional(感情的)というタイトルを考えていました。これは、感動を受けたり、気持ちが揺れ動いたりするという意味だと理解しているので、目に映るものだけではなく僕のフィルターを通して、描く時の僕自身の気持ちの揺れ動きも捉えながら自分の世界を表現しようとしている制作の姿勢も表せると思いました。ただ、最近は「エモい」というような現代風の言葉になったり、ポップで多様な意味合いも出てきているので、しっくりこない部分もあるなあと。改めて候補案を見直して、「nostalgia」は見る人側の心の動きとして合うのではないかと、こっちにしました。
-作り手の感覚よりも見る人がどう受け取るかをより重視したタイトルになった、ということですね。深澤さんといえばどこか懐かしさを感じる作品が印象的ですが、個展のメインの作品「青の聖域」はこれまでの作品とはまた違う感じがします。
この作品はちょうど昨日完成しました。確かにこの作品を見た他の人にもこれまでとは違うと言われました。絵によって描く時の向き合い方が変わるので、その影響かもしれません。
最近は窓に興味があってよく描いています。外の風景が映し出されている窓と、別の世界が描かれている四角いキャンバスが似ているような感じがして、そんな構造的なことも気になっています。絵という窓の中に窓が描かれていると、絵の中にまた絵があるという入れ子構造になります。展示空間のホワイトキューブは窓がないことが多いので、そこに絵をかけると窓ができることも、興味があります。
ただ、僕は飽きっぽいので、これまでと同じように絵を描くのに飽きたのかもしれません。僕は実際に見た風景や体験を元にしないと絵が描けないんですが、描こうとしてもこれまでの方法だと拒否反応が起きて描けなくなる時が時々あります。それはきっと自分の中で何かが変わろうとしている時で、そんな時期を経て今回の作品ができました。
-「青の聖域」は、絵の具の厚みやタッチが場所によって違っていて、最初は何がどうなっているか分からなくて現実的ではないようでありながら、現実の風景を元に描いているからなのか、破綻のない不思議な絵という感じがします。
絵を見た人から色々な意見が聞けるのは嬉しいです。もともと僕は絵をどう見るというように話すタイプのアーティストではなく、描いたものを見た人がそれぞれに意味を考えて、何か記憶が呼び起こされたらいいなあと思っています。
この絵は石川県で見た、実際の光景の写真を元にして描いています。一番奥に海があって、その周りの4枚の鏡に後ろの光景が映し出されているような場面です。鏡は題材としては難しいですが不思議さもあり、いろんな窓が同居している空間を描くのは面白いのではないか、といつもより大きいサイズのキャンバスに挑戦しました。
-絵の変化を、自分自身ではどう捉えていますか?
自分ではどう変えようということは意識していないんです。ただ、飽きっぽいし、変わってきているのは自覚しています。自分の中で何に力を入れているのか、年齢や社会の状況で変わるのではないかと思っています。確かに描く1枚ごとにどう向かうかの姿勢は大きく変わります。
-「青の聖域」の前に描いていたのはどの作品ですか?
「一月一日」です。
この作品では、どんな空間に展示されるかを考えてみました。空間に何を持ってくると面白いか?を考えてテーマを選びました。空間や見る人の反応を考えて、それなら自分がこう反応してみようと、こうしたやりとりは波のようで面白いです。
タグボートには作品を1点ずつ見せられるオンラインのギャラリーがありますが、今回はリアルの空間で、単に個々の作品をキレイに並べるだけではない空間にしたいと思いました。そして空間に入った瞬間から何かを考えてもらえるようにと、これまで何度か描いていた「火」の大作にしてみました。特に元日の火は縁起がいい火らしいです。この作品があることで、見に来て下さった方の足を止めて、少し立ち止まってもらい、熱いとか消えるとか見る人の中でさまざまな感覚が出てきて、他の作品と合わさって展示がまた別の意味を持って再構成されるような、奥行きのある展示空間を目指しました。
-「火」となると、最近起きた事件や世界各地の紛争も連想されます。先ほどの「青の聖域」の水や、他の日常の一場面を描いた絵とも対比できるかと思います。
展示を見てそういう連想をする人も確かにいるのではないかと思います。ただ、そういう直接的な負の体験をした経験が僕にあるわけではないし、意識したわけでもないです。簡単に言葉にできないこと、してはいけないことのような気もします。関連付けは見る人に自由に考えてもらって、それぞれの人にとって大事な意味を見つけてもらえればと思っています。物を描くと、必然的に意味が出てきます。でもその意味付けには僕は執着していなくて、後からどう受け取られたのかニュアンスを知ることはとても興味深いです。
-「一月一日」もこれまでの作品とはどこか違って見えます。
ピンポイントで1つの大きな出来事がなくても、日々の中でさまざまな感情が芽生えます。やるせなさだったり怒りだったり、そういう心の揺れ動きはどの絵にも入っています。絵の具の付き方、筆への力の入れ具合、筆を走らせる高揚感、激しい衝動的なタッチは心の揺れ動きの表れだと思います。加えて、日々の揺れ動きの蓄積で自分自身も変わっていき、自分の中のバランス感覚にも影響があると思います。何をインプットするかは大事で、絵を描いていない時は次に何を描くか探すために、そして変わるために外に出ていることが多いです。これからも少しずつでもずっと作り続けて、変化が見られる作家になりたいと思っています。
-日常を切り取った作品は、明るい色で影がくっきりあるわけではないのにどこか物悲しさがあったり、描かれた猫もどこかふてぶてしさがあったりで、単にキレイというだけではない感じがします。
最近は猫カフェ、温泉、そして落語で息抜きをしています。猫の絵にはそのインプットが影響しているかもしれません。
単純にかわいいものやキレイなものよりもどこか不完全なものに惹かれます。「不完全さフェチ」とでも言うような。汚いとされるものを削ぎ落とすのではなくて、そういう部分も含めていいと思えるもの、それが自分の好きなものだと感じています。
絵も遠くから見るのと近くで見るのとでは全然違います。ネットで作品を見て下さった方は、表面がキレイで整ったものだと思っているかもしれませんが、実際は絵の具の厚みがあってゴツゴツしています。風景も、色はビビッドで明るいのに、物悲しさのような言葉にできない何かが絵になっていると思っています。ぜひそういうところも見て何か発見してもらいたいです。