日本の美大教育の現状
日本の美術界は、大学においても作品の制作技術を磨くことが教育のメインである。
一方、作品にはコンセプトが必要であることを学生に徹底的に刷り込んでいくことで「コンセプト信者」となったアーティストが学内で大量に生み出されているようだ。
作品の意味や世界観を言語化することが重要なのはわかるが、実際には学生から出てきたコンセプトシートの内容が意味不明であることも多い。
凝ったコンセプトを作り込むよりも、インパクトのある世界観の作品を作ることに精を出してほしいものだ。
さて、現代アートにはコンセプトが必須と言い始めたのは、おそらく20世紀以降の欧米の評論家によるものと思われる。
作者の意図を推論し、美術史の文脈に位置づけようとする評論家や学芸員の試みは理解できるが、ほとんどの場合、そのために書かれた文章で一般の鑑賞者の共感を得ることは難しいだろうし、評論家の自己満足で終わってしまうことのほうが多いように思われる。
美術の研究は実験によってデータから論証できるような科学的なものではなく、評論家がイメージする作品に対する思いと美術史へのこじつけといったものになりがちのため、論理性に欠けてしまうのは仕方のないことだろう。
上記のようなアカデミズムに染まった教育機関の中に、石膏デッサン等で技術武装をした学生が飛び込んで来るのが今の日本の現状だ。
模写の技術で受験戦争を突破した学生は、入学後にいきなり担当教授から「作品のコンセプト」をもとに作品を作ることを強いられて路頭に迷うことになる。
このような現状では、多くの学生はアーティストという職業として食べていく力がまったく身に付かないまま卒業してしまうことになりそうだ。
コンセプトは高価格のアートの説明に必要なもの
マルセル・デュシャンが100年前に登場して以降は、アートは技術と美しさだけで価値付けされるのではなく、作品のコンセプトによって評価されるべきだという理論が一般的になった。
アートの販売価格を上げていくためにはその作品の価値を示すための論拠が必要である。
その論拠がないと、購入客にとってはなぜその作品が高いかの理由が説明できないからだ。
価格の論拠に必要なものこそが「コンセプト」であり、コンセプトには社会的なメッセージが備わっていて、且つ美術史の文脈の中で正しく位置づけがされることが要求される。
作品の価値を上げるためには専門家によるお墨付きが必要ということであり、コンセプトは高価なアート作品の価値付けに役立っているのだ。
コンセプトは価値を論証するための手段として使われているその一方で、最近の美術教育ではコンセプトが手段ではなく目的化しつつある傾向にある。
それによって、理解が難しいコンセプトがてんこ盛りのアートが量産されることとなった。
元々日本人は、欧米人と比較すれば物事をロジカルに説明することには長けておらず、どうしてもコンセプトを語ろうすとすると冗長的になりがちだ。
そうすると一般の人とアーティストや評論家との間にある壁は厚くなり、ますますアートというものが近寄りがた存在となりかねない。
アーティストとして食べていくために学ぶべきこと
日本の美大では卒業後にアーティストとしてどのように生きていけばよいのかといった教育がされることは一切ない。
制作と座学を学ぶことはあっても、その技術を生かしてどのように食べていけばよいかは誰も教えてくれないのだ。
それは教える側の美大の教授陣が作家として作品が売れているわけではないので、売り方が分からないから教えようもなというのもあるだろう。
いずれにしても、作家を職業としたい人にとっては卒業後にはどうしたらよいか分からないまま、自分自身でけもの道を探っていかなければならない。
これではせっかく、作品の価値づけのためのコンセプト作りを学生時代にやっても役に立つことがないままだ。
少なくとも個人事業主であるアーティストにとって、生きていくためのセルフプロデュース術やコミュニケーション術といったものは自力で学ばなければならない。
今後は、個人事業主や起業家が提供するサービスや商品に関する基礎的な知識や、彼らがそのサービスを広めるためにどのような販促をしているか等、アーティストという職業をやるにあたり必要な考え方を教育するような学校やサービスが増えることがのぞまれるだろう。