アートを知ることで身に付く教養はビジネスには直結することはないものの、大きく分けると以下の2つのことに役に立つと言えよう。
一つは、アーティストの頭の中の世界を感じ取ることであり
もう一つは、よい作品のコレクションに役立てること、である。
まずは最初の一つ目であるアーティストとはどのような人たちであり、そのような人たちの頭の中にある世界を知ることの意味について考えてみよう。
よく勘違いをする人が多いことのひとつとして、アーティストとはセンスがよいからアート活動をしているのではないということだ。
感性が高いアーティストは一般の人よりも若干は多いかもしれないのだが、必ずしもそうであるとは言えない。
アーティストがほかの人と違うのは感性の高さではなく、絶えることない創作意欲だ。
作り続ける意志についてはアーティストは一般人と比べてはるかに違う。
つまりアーティストとは「常に何かを作らざるを得ない人」だと言ってもよいだろう。
アーティストにとって作ることは作業的なものとはほど遠く、自らに課せられた運命のように取り付かれてしまうものだ。
その中で感性が高いアーティストもいれば、そうでもないアーティストもいるというわけだ。
アーティストの中にはおそろしくファッションのセンスも悪い人もいるし、自分の持ち物や服装にまったく興味を持たない人も多い。
さて、美術館でアート作品を見たときに、創作意欲が沸く人と、作品に感心して終わる人とに別れる。
アーティストは鑑賞をしながらも作り手の立場に自分を置き換えてしまい、そこで創作意欲が高まると居ても立っても居られなくなる。
そういう性格は学んで身に付けるものではなく、もともとのDNAと本人が育った環境によるものだ。
だから、芸術家の子供がミュージシャンになったり、小説家といった、「ものを作る人」になりやすいのはそういうわけだ。
アーティストでなくても突発的に制作意欲がわくことはあるだろう。
しかし創作を一生の職業と考え、その意欲を長期にわたって継続させなければ、単なる趣味に終わってしまうのだ。
何がそこまで創作に向かわせるのかが不思議なほどに、常に次の作品の構想を考えるタイプがアーティストなのだ。
そのようなアーティストのもつ創造性に触れることは、人間のもつ根源的な制作意欲を感じることになる。
我々は生まれたばかりのころは何もかもが新しく創造性に富んでいたのが、社会に溶け込んでいくうちに人間関係や様々なしがらみを経験することになる。
そこでは無垢な感情から沸き起こっていたモノづくりへの欲求が知らず知らずのうちに薄れてしまうのだ。
その感覚を再度呼び起こしてくれるがアートであり、我々は何も実利や有用性だけで動いてないことを気づかせてくれるのだ。
アート作品を鑑賞して作家の意図を想像すると、アーティストの心の中にビジネスや社会性を超えた創作の目的というものが垣間見えたりする。
また、アーティストが心の赴くままに作ったものを見て感動することもあれば、世の中のすべてが営利やギブアンドテイクによって動いているのではないことに気付いたりする。
このような体験が俗世界で生きる人間の頭を浄化し、新たなる活力につながると信じている。
さて、もう一つのアートを知ることで役立つのは、よいコレクションを作ることである。
改めて言うまでもなく、質の高いアート作品を買うには多くのアートに触れることが必要だ。
美術館や一流のアートフェアで展示されるホンモノの作品を数多く見ることで、資産的に価値の高いアートを直感的に理解することができるだろう。
また、美術史の文脈やアーティストのコンセプトを知ることで、その作家が今後活躍できる可能性をチェックすることもできる。
特に欧米の知識人はパーティーの席上でうんちくを語るためにアートの教養を深めているのではなく、将来的に資産が上がる作品を間違えないために教養を仕込んでいるのだ。
アートは見たときにその場で買わなければすぐに他で売れてしまう商品特性だけに、多くのアート作品を見ている教養のある人は正しい判断基準を持っているのだ。
さて、ここまで説明したとおり、我々はアートを学ぶことで感性を高め、右脳を刺激するビジネスにつながるといった間違った論調に惑わされないようにしなければならない。
左脳を働かせて論理的に考えれば、アートが役立つ本当の意味を理解できるはずであり、タグボートはその指針を今後も正しく打ち出していきたいと思っている。