高齢化社会でアートは売れない
日本の現代アートの一人当たりのマーケットは先進国で最も低いと言われている。
その原因のひとつが長年にわたる経済停滞と超高齢化社会にあるのは間違いない。少なくとも、日本の美術教育や住宅の狭さに起因していることではないのだ。
経済が潤い、余ったマネーの先にアートの購入があるというのが原則だ。
アート市場は、一人あたりのGDPや資産額ではなく、実際にお金が動いているかどうかが重要なのである。
そう考えると、現代アートという一見分かりにくい商品を買うのは保守的な老齢者ではないことは明らかである。
日本は米国や中国と比較すると、平均年齢(平均寿命ではなく、年齢の中央値)が約10歳も高い。
国別の平均年齢は、モナコのような資産のある年長者しか住めない小国が1位で、次が日本というのだから、先進国でもダントツの超高齢国家である。
資産家の多くが70歳以上で、しかも資産を不動産や銀行預金として持っているというのだから、マネーが動きやすい市場でないことは明らかだ。
つまり、資産家の多くを保守的な人が持っているというのがアート市場が小さい主な原因である。現代アートは保守的な国家では育たない。現代アートを買うというチャレンジングな行動は思考そのものがアバンギャルドであることが前提なのだ。
経済成長がないとアートは売れない
さらには日本は先進国で唯一、この30年成長が止まっている国である。
他国の経済規模が拡大し、賃金も物価も上がる中で、日本だけが経済成長していないのだから、アートを買う余裕が国民にあるわけがない。
2010年には世界全体における日本の名目GDPのシェアは8.5%であったが、2023年には4.0%まで下がり、この間に中国とドイツに抜かれてGDPは世界第4位となった。
つまり、この13年間で世界における日本の相対的な経済は半分以下となったのだ。
以上のような状況ではあったが、コロナ禍には、行き場のない余ったお金の行先としてアートが一時的にクローズアップされることがあった。
旅行、飲食、ゴルフ、その他エンターテインメントが制限される中で、アートが投資的な価値として浮上してきたことが原因である。
オンライン会議の背景にアートを映すためにアート市場が広がったといった軽薄な論調もあったが、実際にはそんなことで市場が動くはずなどなく、行き場のないお金の一時的な行き先として、分かりやすい「イラストアート」の購入に人気が集まり、オークション市場がそれを支えたただけである。
欧米市場での認知
もちろん経済に呼応する形で日本のアート市場も失われた30年であった。
その間に国内市場が先導して盛り上がったアーティストといえばラッセンくらいで、草間彌生も村上隆も、奈良美智もすべては海外市場からの評価が還元して国内で人気が出たのだ。
また、1970年代の「モノ派」や「具体」については、当時国内での人気はさほどではなく、海外ではその存在がスルーされていた。
しかし2010年代に入ってようやく海外の評論家によって、モノ派や具体がコロンブスによるアメリカ大陸のように「発見」されたのだ。
つまり、元々から日本にはあった作品ではあるが、欧米の市場で認知されていなければ、なかったものとされてしまうということだ。
今でも欧米市場で認知されることが重要なのはここ30年間変わりがない。
では、実際に日本のアートがこの30年の間に、草間、村上、奈良を継ぐよいアーティストが出現していなかったかというと、そうではない。
素晴らしいアーティストは存在していたが、それが欧米マーケットで知られていなかっただけだ。
なぜそうなったかというと、例えば、スイスやマイアミビーチで開催されるアートバーゼルに出展できている日本のギャラリーは2軒程度である。つまり全体の1%かそれ以下だ。
また、ニューヨークやロンドンの地にこれまで進出したギャラリーはほぼすべて撤退を余儀なくされてきた。
国内と欧米との物価の差はますます広がっているので、海外でかかる費用を持ちこたえられないのが実態だ。
そういう状況もあって、実際に国内によいアーティストがいても、欧米のマーケットにギャラリーがアプローチできないまま存在を知られることなく過ぎていったのだ。
さて、ここで我々は指をくわえたまま、日本人アーティストがパッシング(無視)された状況のままでよいのだろうか。
これまで見過ごされてきた日本のアーティストの作品をあらためて、欧米市場に理解してもらう必要がある。
横山大観のようないかにも日本的なクラシックな作品をあらためて欧米に問うことには意味がない。
すでに国内のクラシックは、結果として作品価格がバブル時代から10分の1まで値下がりしており、斜陽となった作品が競合がすさまじい市場で復活する可能性はないと見ている。
また、細かい手作業で技術的に優位な工芸的作品を見せていくのも悪手だ。いかにも日本的なアイデンティティを示すのではなく、あくまでもグローバルな競争や評価に耐えうる作品でないと意味がないだろう。
次回以降、失われた時間を取り戻すための具体的な施策について考えてみようと思う。