資本主義によって富む者はますますその資産を巨大化させ、貧困層との格差を拡大させている。
これはお金がお金を生むシステムである資本主義が高度に発達した末路でもあり、ここまで貧富の差が拡大することは自明であったといえよう。
その一方でAIという新しい技術は、資本主義にとって都合のよい合理的なツールであるため、その発達と利用度は今後ますます増えていくだろう。
そうなると、それまで事務作業をメインとして働いてきた人が不要となる速度はとどまることがない。
たとえば、自動運転技術が進んだAIの時代はタクシー、トラックの運転を24時間休むことなくやってくれるので、人間の運転手は必要なくなる。
様々な労働者の30-40%は現在の職を失い、何らかの新しい職を探すことになっていくだろう。
AIの技術の発達と成熟した資本主義の末路では、多くの富裕層や企業からの税金をもとにベーシックインカムのような形で社会基盤として一定の収入が国から給付される時代となるかもしれない。
何も働くことなく生活のために必要最低限のお金を与えられた人のうち自由な時間を利用してアート作品の制作の方面に進む人は少なくないだろう。
もちろんアート以外にも様々な娯楽や文化にも一般の人がなだれ込み、そこでは合理性とは距離を置いた人間としての本来の楽しみ方を目指す人が増えていくと思われる。
アーティストの数は激増して現在の数倍、数十倍となり、そこでは創造性の競争が繰り広げられることになるだろう。
常に新しいこと、見たこともないようなクリエイティブ、これまでにないコンセプトを作り出そうとする人がAIの時代には逆に増えていくのだ。
作り手が増えてその人たちが個人事業として食べていけることを目指せば、アーティストの裾野が広がりマーケットは巨大化する方向に進むだろう。
多くのアート作品が巷に出現し、多くのアートファンに消費されていくだろう。
今までよりも世の中に認められるアーティストの数が増えて、大きな力を持つようになるのかもしれない。
そうなると、アーティストは作品だけを作っていればよいという時代は終焉となり、作品を作る以外にも様々な仕事に関わっている人のほうがより深い知識と洞察力を持つことができ、作る作品もそれに応じて面白いコンセプトが出てくるだろう。
アーティストという単一の職業に就くのではなく、ほかの職業をいくつか兼任しながら、新しいクリエイティブを作る人が増えるくる時代は遠くないのだ。
模写の技術がアートにとって意味が薄くなってしまって以降、デッサンの上手い下手や美術大学に行ったかどうかなども意味を失い始めている。
誰もがアーティストになれる混沌とした時代の中でアートマーケットは肥大化すれば、資本主義の末路の後を追うように進んでいくのかもしれない。
アートは個人が作家に作品を直接作ってもらうといった家内制手工業から、アンディ・ウォーホルのように多くのスタッフを使ってファクトリーのように大量にプリント作品を作る時代へと移り、現在はチームを組んでデジタル作品を作ることも広がってきた。
当初は資本主義のようなものとはほど遠い存在がアートであったが、オークション市場に現代アートが入ってきたからは様相が変化し、今後は資本主義の権化のような存在に変わっていくのだろう。
金が金を生む市場にアートが巻き込まれると、アーティストの中で一部の富裕層と大量の貧困層が生まれ、その格差が広がっていく。
現在の資本主義が成熟化し、富みの配分などでソーシャルな方向に進むことになれば、アート市場も同様に進んでいくのかもしれない。
資本主義の真ん中にいる我々が、自由な表現を真骨頂とするアートの存在を今後どうしていくのか、それは我々の意思によって変わるかもしれないのだ。