新型コロナウィルスによる一時的な脅威において、人間がもつ作品を作りたいという欲求をとめることはできない。
どんな状況においても、アートは人々の生活の中にあり、人として生活するのに不可欠なものであるからだ。
今後は、ウィルスの正体が徐々に明らかになっていく中で人々の恐怖は軽減されていき、取って付けたような「新しい生活様式」などなかったかのように元の姿に戻っていくだろう。
感情が働くところにアートがあり、それは人間の密なコミュニケーションをベースに生まれてくるからだ。
現在の一時的な集団パニックは、ITの進化と重なりコミュニケーションの合理化を促すこととなった。
そこでは、直接人と人が会うことのない仕事や生活が定着するかと考えた人もいたようだが、人間の心は機械のように合理化されるものではない。
Zoomのようなネットを介した簡易なコミュニケーションを活用して遠隔でもライトな会話が対応できるようになる一方で、人間はより質の高いコミュニケーションを避けることはできない。
息遣い、感情の起伏、匂い、雰囲気を感じることで人間は生活しており、合理性とは違うことで人間は判断しているのだ。
個別の直接的なコミュニケーションが減らされたのはコロナの正体が特定されるまでの一時的なものであり、人間が社会を発展させていくためには、密になっていかなければならないのだ。
一方で、AI(人工知能)の進化により、あらゆる決定事項はコンピュータによって最適化できるようになってきた。
今の空腹事情と昨日食べたものから計算し、カロリーと個人の嗜好を加味したデータから、最適なランチのお店をAIが紹介してくれることになるだろう。
また、服を選ぶ場合にも、予算の範囲内で、体型、趣味、多様性の中でその人にぴったりの服をAIが選んでくれるはずだ。
そこには一寸の無駄もなく、自分の頭で考えることより広い選択肢から瞬時に最適解を導いてくれるだろう。
しかしながら、その選択には意外性はなく、偶然の出会いもない。
本人が期待する範囲内でAIが答えを導いてくれるのであり、AIの答えを導くためのルールは人の手によって作られるからだ。
アートはそのような合理性とは対極にある。
つまり、非合理性こそがアートなのである。
アーティストは自ら作りたいものを作るし、購入者は作品を合理的な理由で買っているわけではない。
アートに使われる素材は価格に反映されず、付加価値が価格の90%以上を占める。
購入者は作品から感じる「意味」で作品を選択しており、そこにロジックは入ってこないのだ。
コスパに対するアンチテーゼのようなものがアートであるといってよいだろう。
合理性とは完全に距離を置く存在がアートだとすれば、アートの価値や価格がどのように決められるのかについて考えてみよう。
アートは必ずしも「価値=価格」にならないということが一般の商品との違いである。
まず、アートの価値とはそもそも客観的な判断によってされるのではなく、あくまで個人の主観で評価されるものである。
個人がよいと感じれば高い価値であり、それは個人が決めることなのだ。
つまり本来は、評論家や学芸員から下される評価によってアートの価値が決まるものではないのだ。
しかしながら、このような原理原則とは裏腹に、第三者からの評価を元にアートの価値が決められているのが現実だ。
さらに、アートの価格についてはどのように決められるかというと、これも原理原則では需要と供給の関係によって決まる。
従って、制作数に限りがある人気作品は上がる傾向にあり、誰もそれを制することはできない。
しかしながら、これも第三者的な評価や判断を元にオークションのエスティメート(見積もり価格)が作られ、それを元に価格が形成されているのが事実だ。
オークションの人気に対して、学術的な権威が歯止めをかけたり、または勢いをつけたりするのである。
アート作品が大衆化することはブランディングにとってマイナスイメージこともあるので、このような学術的な権威を作品に後から付与することもあるのだ。
しかし、いかにアカデミックな権威から高く評価されても、個人の嗜好とはかけ離れた作品に買い手はつかない。
価格はマーケットの人気で決まり、価値は個人の価値判断によるという原理原則がある中で、アカデミックな評価がいまだにものをいう世界がアートなのだ。
例えば、院展を始めとする日本画壇の世界や、その他の日展などの団体展の世界では号あたり単価という権威が絶対であり、それは団体展への出品数と入選数のようなもので決定される。
政治家が当選回数と党の重要ポストの経験の有無とで出世する古いしきたりによく似たようなものだ
このように、マーケットとは別の世界で存在する価値が第三者の権威によって作られる、という矛盾がアートの世界にあるのだが、今後それがどう変わっていくのかを次週で考えていきたいと思う。
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