数回にわけて現在のアートが未来になるとどのような変化をするのかを予想したいと思う。
読者の中にはアートの将来は分かづらくどうなるか予想もつかないと感じる人もいるだろう。
しかしながらアートの未来の萌芽はすでに現れているのだ。
そこから読み取れる事実を探っていけば、アートの未来がどちらの方向に向かっているかのがおのずと見えてくると思われる。
さて、第一回目はアートの作品が全体としてどう変化していくかを、使用するメディア(技法)の面から探っていきたい。
アートは、作品の作りやすさ、持ち運びのしやすさという面で進化してきた。
作りやすさとしては、できるだけ早く、大量にという作家ニーズを満足させる結果として発展したものだ。
もちろん工芸品のように情報がかかる緻密な超絶技巧もアートとして残っていくだろうが、現在はコンセプトの面白さがアートの価値を決める重要なポイントとなっているため、作品は早く大量に作れるに越したことはない。
写真や映像は短時間で大量に作れることが強みなので、写真をアートとして取り入れられるのが現在では当たり前となっている。
写実的に描くのは「技術」であり、その技術競争は「古典」としては残るだろう。
しかし写真は技術競争ではなく、表現したい作者の意図をくみ取るための手段として使われている。
つまり、表現の方法として絵画を描くよりも写真のほうが手っ取り早いのであれば、写真を使ったほうがよいのだ。
見たものを忠実に切り取るということであれば、絵画よりも写真のほうが圧倒的に優れており、早いだけでなく様々な加工も容易だ。
さらに映像はその画像情報を大量に使い、ストーリーまで見せることで総合的な芸術にまでなっている。
このように写真や映像はアートの速度と量を求めることから進化してきた。
次に、持ち運びのしやすさという面でもアートは進化していくだろう。
古代のアートは壁画が主流であり、持ち運びができなかったようだ。
壁画を依頼された画家は依頼主の家まで行って作業しなければならないし、切り売りすることも不可能だった。
そこでキャンバスのように軽くて持ち運びしやすいものへと描く支持体が変わっていったようだ。
その後さらに技術が発展し、大量に作るための版画が発明された。
また、写真のもアート作品となり、さらにデジタルによる版画も作品化していった。
今後はVRのような作品も表現方法として増えるだろう。
アート作品の未来であるが、デジタルアートがこれから圧倒的に増えていくことが予想される。
iPadのようなデバイスで作品を書くことは一般的になるだろう。
デジタルで描くほうが早いし多彩な表現が可能であり、デバイスの機能が上がれば、あえてキャンバスに絵具で描くことの意味も薄れてくるかもしれない。
しかしながら、現状ではアーティストはデジタルアート作品を作っても、それを必要に応じて紙やキャンバスなどにプリントアウトしたものを販売しなければならないのが現実だ。
つまり、デジタルで作っても最終的にアナログ化して販売するしか方法がないのだ。
ここには大きな問題があると思う。
同じ芸術でも音楽や映画はインターネット上でデジタル化された商品として普通に流通されている。
デジタルデバイスに大量に保存できるし、サーバー上にデータがあるので紛失することもないのだ。
一方、アートのデジタル作品の販売は、デジカメ画像をJPEGのまま利用できないような世界のままとなっている。
デジタル作品は簡単にコピーされやすいし、版元側がコピーされた作品を管理できないことに問題があるのでデジタルのままでは販売できないということだろう。
誰でも芸術を楽しむことができる時代が近づいているのに対し、なぜかアートだけは限定品としての希少価値ばかりが重視され、工業製品のように大量に作られると価値が棄損されると見られてしまう。
本来ならアート作品も好きな多くの人に鑑賞してもらい且つその一部を保有できるほうが価値が上がる仕組みのほうがよいはずだ。
アート作品に希少価値が重視されることは、オークションで数百億円といった「法外な」価格が付いてしまう所以であり、そこには違和感を感じる人もいるだろう。
音楽や舞台といった芸術が美術よりも大衆化し、マーケットが拡大した原因は、そのメディアの進化の差にある。
YouTubeやiTunesなどで今では誰もが安く簡単に音楽を聴くことができるようになっているが、逆にコンサートなどで生の音楽を体験する参加数は増えているのだ。
最初は安いのでまず一度デジタル音源を聴いてファンになってもらい、その後で実際のコンサートに足を運んでもらうという体験を積むのだ。デジタル音源はコンサートを見てもらうための「手段」になりつつある。
一方アートは、いまだににデジタル化から離れた「希少価値」と手作り感にこだわっていることから、人気作品が異常な高値となるという現象を引き出している
この希少価値の最たるものが、一昨年500億円で落札されたダヴィンチのサルヴァトール・ムンディであろう。
アートの民主化が進めば、本来なら価格差は是正されるはずである。
さて、アートの民主化というものはデジタル化によって進化していくのであるが、その利用法と発展の仕方には重要な技術が使えていないことに問題があると思っている。
こちらの問題を解き明かすために何をすべきかについて考えたてみたので次のコラムの中で明らかにしていきたい。
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