タグボートの阪急メンズ東京のギャラリースペースでの次の展覧会は、橋本仁さんの個展になります(8月2日から9月5日まで)。テーマは「Memento mori」。メメント・モリ、つまりは「死を忘るなかれ」です。日本の将来から動物愛まで、どんなトピックスについても明るく熱く話す橋本さん自身とは対照的にダークな感じがするかもしれませんが、実はこれまでの創作でも一貫してずっと向き合ってきたテーマだそうです。亀のカメコにご飯をあげたり、おでかけから帰ってきた白柴と挨拶をしたり、庭の作業スペースで植物に囲まれながら木材を切り出したりと、多くの生き物たちと暮らすアトリエでのインタビューの概要を以下に紹介します。
-今回の個展のテーマ「メメント・モリ」にはどういう思いが込められているのですか。
人間というのは生と死の間にあリます。「私はいつか死ぬ」という前提を踏まえると、他の存在も同じようにいつか死ぬ、ということに自然となります。自分が存在するのは短い間で、巡り合わせでたまたま一緒に存在している周りの他のモノとの出会いがあってと思うと、どうせなら今という瞬間や周りの存在も大切にしようという気持ちになるのではないでしょうか。誰でもいつかは自分が死ぬということは分かっています。この自明なことをあえて言うことで、宇宙の中の一部である小さいけど確かな自分、そして同じように大きなサイクルの中にいる他の存在に思いを巡らせてもらえるのではないかと考えて、テーマを設定しました。
でも実は創作の根幹にある本質は変わっていなくて、自分の実感をどうすれば分かってもらえるか、伝えるためにいつも試行錯誤していて、今回はこういう形になりました、ということなんです。
ーこれまでの作品との繋がり、一貫しているその「本質」とは?
生きている実感、今ここに存在している実感、僕はその実感が好きなんですね。高校生ぐらいまではその実感のなさに悩んでいましたが、美術に出会って救われました。それまでは美術というものに偏見があって、軟弱なガリ勉タイプの人がやるものだと思っていました。男は元気に外で遊ぶもの!だと。でも実際に制作に取り組んでみるとかなりの肉体作業だし、精神の総動員も不可欠です。自分が存在している実感が得られるこれ以上面白いことはないと、衝撃を受けました。
美術ではデッサンをしますが、デッサンは絵を描くことではないと思っています。やっているのは世界の再構築で、目の前にモノがあって、周りには部屋があって、さらに建物があって、ずっと外側には宇宙があって…とモノの存在がどういうことなのか理解するきっかけになります。そしてその世界の中に自分も存在しているのだという実感が得られます。でもこの「実感」というのは可視化できないし、なかなか説明も難しい。これまでの創作も今回の作品も、この実感を伝えようとしています。自分が存在しているという実感を持つと、他にいろんなものも存在して繋がっていて、世界に対して、例えば海や山に対して、この短い生と死の間でどうせなら汚さずにいよう、と思うように気持ちになるのではないかと思います。
-今回の個展では骸骨のイメージが登場します。これまでは具象的なイメージはあまりなかったと思うのですが?
実感があることが好きなので、実物ではないのに具象的なイメージを描くことはあまりありませんでした。今回の個展のメインの作品の骸骨も、デッサンではありますが骸骨そのものに意味があるというよりも「死を表す記号」として捉えています。デッサンの上にスプレーをかけて、わざと見にくい感じにしています。複数の骸骨のデッサンを組み合わせた作品もあるので、あえて複製を入れてデュシャンやウォーホール的なことに挑むという方法もあったとは思うんですが、そういう分かりやすいロジックに従うのもイヤ(笑)で、そういうことは他のアーティストに任せればいいかなと。1つの骸骨をもとに描いた複数のデッサンですが、あえて変えて多様性を持たせました。
ーこれまでの作品で見られた木のキューブを削り出した形が今回の個展でも登場しています。このキューブも「実感」との繋がりがあるのでしょうか?
少し遡りますが、大学では鉄のパイプを機械を使って捻って潰し、集めたり積み重ねたりして作品にしてました。これは時間の蓄積、つまりは僕が作業にかかった時間、存在していた時間を込めているつもりで、そのためには何か作り込むような作業よりもドライに機械的に潰す、という方が合っていました。ただ潰す、その営みの時間が目に見える形に還元されるという感じでしょうか。例えば鍾乳石が一粒ずつ落ちる水滴によって成長していき、自然の営みの結果として時間が込められているような。
当時、ねじって潰した鉄パイプを積み上げて巨大なキューブを作ったりしていたのですが、中身がずっしりと詰まったキューブに対して、弱々しくて消えてしまいそうな抜けがらのようなキューブを作ることも考えていました。相反するコンセプトがあると作品は面白くなると思うので。ただ、実現できないままになっていて、このアイデアを木で試したのが、枠だけ残すようにして掘った木のキューブなんです。結果的に、捻った鉄を積み上げるという充足感とは違う形、反対の欠乏感の表れではありますが、掘って無くなった分だけかかった時間を表現できるので、同じように営みの時間を直接「蓄積」できる方法になっていると思っています。
ーメメント・モリが決して暗いテーマではなく、死という避けられない出来事がいずれあるので、それなら今の生を肯定的に捉えようという、むしろ前向きな姿勢の表れなのではないかと感じました。でもその一方で、社会に対して何か警告になっているようにも受け取れます。
TPPや少子高齢化、産業の衰退、環境問題などについて興味があってよく考えます。そして最近の社会の動きを見ていると、もう日本はダメかも、という気にもなります。環境問題で世界全体が危機にあるとしても、日本の方が先になくなってしまうかもしれない、と。なくなっていく日本人の末裔として作品制作をしよう、なんて考えたりします。でもそれでも希望は持ちたくて、何か軟着陸できる可能性はあるかもしれない、諦めてはダメだとも思っています。石川啄木とか、少し前の若い日本人が勝手に日本を背負っている感じが好きなので、その影響もあるかもしれません。作品を通じて実感を共有できれば、本質的なことが見えてきて何かいい方向に転換するのに貢献できるのではないかという期待もあります。
アーティストは、社会とは反対の方向に進んで本質的なことが見えるようにするからこそ、社会の中での存在意義があると思っています。そして日本ではこれをやればアートになる、ということが今たくさんあります。評価されるかは別として、それをやることが自分に課せられた使命だと考えています。もちろん作品が売れないと困るというのはありますが(笑)
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