
最初の出会い
市川慧と初めて出会った日のことを、今でも鮮明に覚えている。
タグボートでは、才能ある若手アーティストを探すためのスカウト面談を行っており、彼女もその一人として来てくれた。
通常、この面談は「取り扱うかどうか」を判断するためのもので、たいていは何度か話を重ねたうえで方向を決めていく。
その場で個展の開催を依頼することなど、これまで一度もなかった。
けれど、市川慧はその常識を軽やかに超えてきた。
彼女が語る言葉はすでに一人前のアーティストのものだった。
「なぜ描くのか」「何を描くのか」「どう描くのか」。
そのすべてに筋が通っており、しかも若さゆえの勢いではなく、静かに自分の考えを整理して語る姿が印象的だった。
その場で私は心を動かされた。
“この人には、すでにアーティストとしての軸がある”――そう確信した瞬間だった。
気がつけば、面談の終わりには「個展をやりましょう」と口にしていた。
後にも先にも、初対面で個展を依頼したのは彼女だけである。
その後の歩みも、やはり特別だった。
彼女は現役で東京藝大の油画科に合格した俊才であり、コロナ禍の混乱の中であえて一年休学し、自分と作品をじっくり見つめ直す時間を選んだ。
そして復学後、大学2年生という若さでタグボートでの個展を実現させる。
これはタグボート史上最年少での開催だった。
しかも、不況のさなかにもかかわらず、出品した作品はすべて完売。
まるで一つの物語のように、彼女が成し遂げたすべてのことが“最短”であり“最年少”だった。
しかし、数字の記録よりも心に残っているのは、彼女の語り方の静けさだった。
自信を振りかざすわけでもなく、勢いで押すわけでもない。
言葉の奥に、彼女が見つめる遠い風景が感じられた。
それが、後に彼女の作品に通じる“静寂の中の強さ”なのだと思う。

光と闇のあいだを描く
市川慧の作品には、いつも光と闇が同時に息づいている。
彼女が描くのは、スーツ姿の男性《AKIO》と、アニメの世界から抜け出してきたような魔法少女である。
一見、全く違う世界にいるはずの二人が、彼女のキャンバスの上では自然に共存している。
《AKIO》は現代を生きる人々の象徴であり、社会の中で役割を演じながらも、心のどこかで虚しさを抱える存在だ。
働くことや責任を果たすことの中にある、人間の弱さや誠実さを描いている。
一方で魔法少女は、理想や自由、そして若さの象徴として現れる。
現実を超えた存在のようでいて、実は現実を鋭く見つめている。
この二つの存在が、画面の中でぶつかり合いながらも調和しているのが、市川の世界の魅力である。
今回の個展「Silent Eclipse(静かな蝕)」では、120号を超える大作が三点展示される。
これまでの作品よりも構図が大胆になり、《AKIO》はもはや個人ではなく人間そのものを象徴するような姿に変わった。
画面全体に漂う銀色の光は、見る者の心の状態によって印象を変える。
まっすぐ見ると静かな冷たさがあり、角度を変えると奥から温かい光がにじむ。
その曖昧さが、現代を生きる私たちの心を映し出しているようだ。
「光の裏には闇があり、闇の奥には光がある」――。
市川が語るこの言葉のとおり、彼女の絵は一方を否定せず、両方を見つめる。
明るさと暗さ、希望と不安。
そのすべてが共存しているところに、人間らしさの本質があると彼女は知っているのだ。

手で描くこと、そして今この瞬間に立ち会うこと
AIが絵を描く時代になっても、市川慧は筆を取り続ける。
「AIがどんなに進化しても、手を使って表現できることの偉大さを実感しています」
そう語る彼女の目には、静かな決意が宿っている。
筆の跡や絵具の厚みには、彼女が過ごした時間のすべてが刻まれている。
偶然のにじみ、かすかな震え、呼吸のリズム。
それらが重なり、絵の中に“生きた時間”を作り出している。
その温度は、AIには決して再現できない。
だからこそ、彼女の絵はデジタル画像では伝わらない力を持つ。
今回の展示のテーマカラーであるシルバーは、光を映し、闇も映す。
それは冷たい金属のようでいて、見る者の心をやわらかく包む色でもある。
彼女はその色で、現代社会の不安定さや揺れを表現している。
画面の中で光と闇がせめぎ合い、ひとつの均衡を保つ様子は、まるで現代そのものを描いたようだ。
この「Silent Eclipse」で発表される大作群は、間違いなく彼女の代表作になるだろう。
技術、構成、思想のすべてがひとつに結びつき、ひとつの完成形に達している。
学生という肩書きにとどまらず、ひとりのアーティストとして確かな足跡を残した展示である。
作品を手に入れるということは、単に“ものを買う”ということではない。
その作家の歩みに寄り添い、これからの時間を共有することでもある。
市川慧の作品は、成長の途中にあるからこそ尊い。
彼女がこれからどんな未来を描いていくのか、その第一章を自分の手で開くような感覚がある。
静かな光が、闇を照らす瞬間。
その瞬間を目撃できることは、アートに関わる者にとって何よりの喜びだ。
「Silent Eclipse」は、まさにその始まりを告げる展覧会である。
私たちはいま、ひとりのアーティストが“時代を描く存在”へと変わる瞬間に立ち会っているのだ。

市川慧 個展「Silent Eclipse」
2025年11月21日(金) ~ 12月9日(火)
営業時間:11:00-19:00 休廊:日月祝
※初日の11月21日(金)は17:00オープンとなります。
※オープニングレセプション:11月21日(金)18:00-20:00
入場無料・予約不要
会場:tagboat 〒103-0006 東京都中央区日本橋富沢町7-1 ザ・パークレックス人形町 1F

応募期間:2025年11月11日(火)~11月17日(月)
当選連絡:11月18日(火)
抽選方法
・応募フォームよりお申込いただいたお客様の中から抽選で作品を販売いたします。
注意事項
※複数の作品をお申込みいただく場合は、「優先順位」と「購入希望点数」をご入力ください。
※選択いただいた作品の中から、ご希望点数分を優先順位に沿って抽選いたします。
※ご当選後の変更・キャンセルはできません。
市川慧 インタビュー記事