子供のころ、未来都市の絵を描いたことはないだろうか。
高層ビルがそびえ、空を行き交う乗り物があり、キラキラとしたガラスの建物がどこまでも続く——そんな夢のような街。しかし、その未来都市に「人」を描き忘れてはいなかっただろうか?
雀尺の描く都市は、まさにそんな風景である。ただし、そこには誰もいない。未来都市の住人になれなかった男——それが雀尺の視点である。
彼の絵には、緻密に描き込まれたビル群、窓の反射、水たまりに映る空模様がある。しかし、どれだけ細部を見ても、人の気配はない。
人類が消えた都市なのか、それとも最初から存在しなかったのか。そこにいるのは、ただの「都市」ではなく、時間の影を引きずる「廃墟の都市」なのだ。
この視点の原点は彼の子供時代にある。
父親が製図工だった影響で、幼い頃からテンプレートや製図ペンを使い、精密な絵を描くことが遊びだった。
そして十代になると、建築への興味から廃墟をスケッチし始めた。崩れかけた建物や朽ち果てた工場の中に、人の記憶や痕跡を見出していたのだ。
彼の作品の奥にあるのは、ただの「未来都市」ではない。
それは、彼自身が「住めなかった未来」への郷愁なのかもしれない。
細密に描かれた空想の風景
雀尺の作品は、一見するとSF映画のワンシーンのようだ。しかし、よく見ると、映画のセットとは違う。
「映画の背景」はあくまで物語の舞台であり、主役はその場にいるキャラクターたちだ。しかし雀尺の絵では、背景こそが主役なのだ。
彼の作品では、建物の窓や水面の反射が特に重要な役割を果たしている。
窓の中には、何かが映り込んでいるようでありながら、実際には何もない。
ただのガラスの反射なのか、それとも見えない何かがそこにいるのか——観る者の想像力を掻き立てる。
また、彼の描く都市はどこか「懐かしさ」を感じさせる。
無機質な未来都市でありながら、昭和の工場地帯や、高度経済成長期のビル群を思わせる要素がある。
それは、彼が描く「未来」が、単なる未来ではなく、「かつて夢見られた未来」だからだろう。
彼の作品には、「未来都市を描きながらも、そこに時間の流れを感じさせる」という独特の魅力がある。
それは、建物の細部にまで込められた時間の痕跡——ひび割れ、錆び、風化した看板などのディテールに現れている。
未来を描いているはずなのに、どこか「過去の風景」を見ているような錯覚に陥るのだ。
雀尺の作品を手に取る理由
雀尺の作品は、ただ眺めるだけでは終わらない。
見れば見るほど、そこに物語が浮かび上がる。最初はただの都市の風景に見えても、何度も見返すうちに「ここにかつて誰かがいたのでは?」と考えてしまうのだ。
彼の描く「未来」は、実は「現在」と地続きである。作品の中には、今の東京や大阪、横浜の風景とどこか似た構造物が登場する。
だからこそ、「この都市はどこなのか」と考えさせられる。そして、その都市が私たちの現実とつながっていると気づいた瞬間、作品は単なる「SFの未来」ではなく、私たちが生きる「もうひとつの現実」になるのだ。
彼の作品を部屋に飾ると、不思議なことが起こる。何気なく眺めていると、つい考え込んでしまう。
「この都市に人がいたら、どんな暮らしをしていたのか」「もしこの場所に行けたら、どんな風景が広がっているのか」。そうして、いつの間にか、自分自身が雀尺の描く世界の住人になっているのだ。
アートの魅力とは、ただ美しいだけではない。
そこにある物語に引き込まれ、考え、感じることができる点にある。雀尺の作品は、その力を持っている。
そして、彼の描く「未来の廃墟」は、決して寂しいものではなく、そこに希望の光が差し込んでいる。