子どもたちの姿や部屋の中など日常の風景を題材に描く小木曽ウェイツ恭子。
1993年に武蔵野美術大学大学院を修了後、2児の母となり、長らく筆を休めていたが近年制作を再開。タグボート主催のアートフェスIndependentに参加するなど精力的に活動中。ブランクをものともしない確かな筆致と、子どもの成長を見守るように描かれる作品群が人気を集めている。2021年3月に開催予定のアートフェア「tagboat art fair」にて展示する最新作の構想について伺った。
取材・文 = 寺内奈乃
ーtagboat art fair ではどのような作品を展示される予定ですか。
「Blue House Project」と題したシリーズの作品を出品します。
去年秋、義理の妹のルイーズからメールをもらったのですが、その内容に着想を得て描いています。
ーどんな内容のメールだったのですか。
ルイーズとはよくメールのやり取りをしているんですが、その日のメールは、彼女がパートナーと新居を探して見学に行った古い家の話でした。その家の持ち主のおばあさんが残したものがまだそのまま残っていたそうです。家族写真や、止まった時計や家具なんかがそのまま。
そのおばあさんの人生には良い時期もあったのだと想像されますが、割れた窓ガラスに無造作に木の板が打ち付けてあったり、階段の下に歩行器が放置されているのを見て、いつかは自分も女性としての自立と誇りを失って歳をとっていくんだ、っていう時間の流れを感じたみたいです。イギリスは日本より住宅寿命が長いので、一つの家に何世代も住むのが普通ですが、私もそのおばあさんと同じように家の中に好きなものや家族の写真を飾りますし、でもそういうものって永遠のものではなくていつかは消えて無くなるっていうのは同じですよね。読んでいて、そのおばあさんの家を通して見るルイーズの視線に、更に私自身の未来も重ねて見ているような気持ちになりました。そのメールがじわじわと私の心に響いて、以降何回も読み返しているうちに絵になりました。
ー心にじわりと染み入ってくるようなお話ですね。
Blue House Projectより”it wasn’t just a house, it had been her home” 130.3x162cm
ーこの作品は近景と遠景のダブルイメージのようですね。
壁を透かして家の中を覗き見るようなイメージですね。シリーズの絵は、その『おばあさんの家』のイメージだったり、未来の古くなった自分の家のイメージだったり色々です。この絵は実際には物がごちゃごちゃ置かれた私のアトリエの窓辺です。
Blue House Project より”an apron left on the chair” 100×80.3cm
この作品は、エプロンが題材です。柄は私の祖母のエプロンのもので、毎日使うエプロンがいつものように椅子に掛けてあるけれど、エプロンを使う人はもういないんだ、というイメージで描きました。
ーこのメールの文章も、小木曽さんに翻訳されることを通して一層味わい深くなっているように感じます。
いえいえ、ルイーズに文才があるんですよ。気軽に寄越すメールに感心させられることが多いんです。自慢の義妹です。
ー以前から、作品について日記のように文章も書いてますよね。
そうですね、でも、もうやめたんですよ。
自分のウェブサイトに上げるときに、描いたきっかけや自分の気持ちを覚書として書いていたんです。でも、2年前くらいに寺内さん(インタビュアー)に、「小木曽さんの文章が好きです」って言われて「…あれ?それってちょっと違うんじゃないか」と思ってそれ以来書いてないです。
ーええっ、そうだったんですか…!
もし文章のせいで絵が良く見えたらズルいですよね。文章でフィルターかけて見てもらうみたいで、違うかなと思って。
ーでも、本当に文章も良いですね。情景が浮かんで来ます。
え、そうですか。じゃあやっぱり書きます。(笑)
今回のシリーズはそもそも私の文章では無いですし、着想をもらっているのでメールの文章とセットで作品になっています。
解説やキャプションの文章を読んだら70点の絵が100点に見えるのはダメだけど、100点の絵に文章がついて100点以上になるのは良いと思っています。なので、今回はそれを目指しています。
アートフェアの会場に、今回のメールの翻訳も置いておくので良かったら皆さんに読んで欲しいです。
ーご自身の幼少期について教えてください。
母がとにかく絵を描け、描けって。いつも紙が大量にあったし、子供用の工作ブックはよく買ってくれました。それを見るのが大好きで、姉と一緒に片っ端から作っていました。何か作るのに必要で、工具屋さんで母に「目立てやすり」をねだったことを急に今思い出しましたよ。すぐに買ってくれました。すごくくだらないものが出来上がったことも思い出しました。
※目立てやすり
小学生の頃、隣家に絵を描いている人がいたんですけど、いつも窓から作品が見えていて母が「いいね」って良く褒めてたんです。ある日、母が突然思い立って、私と姉を連れて「この子達に絵を教えてください」って、いきなり見ず知らずのそのお宅を訪ねたんです。すごくびっくりしました。私の母はとにかく思いついたら何でも人にお願いしてみて、それで今までありとあらゆる要望が通ってきたので、「言わなきゃ損」が人生の格言みたいな人なんですよ。で、出てきたのはお腹の大きな臨月の妊婦さんだったのですけど、すんなり「いいですよ、どうぞ」と言って家にあげてくれたので更にびっくりしました。次の週からはもう姉と二人でその家に通うようになりました。
その方は女子美を出て、趣味で絵を描いていたということが後からわかりました。私たちが一番弟子でその後絵画教室を開かれました。何があっても決して慌てない人でしたね。今でも心の師です。
ーその後は、美大進学まではどのような道のりがあったのでしょうか。
小さい頃からの母の刷り込みで、「これからの時代、女の子は結婚して奥さんになるだけじゃダメ。一生自分で楽しめるものと、手に職だよ」と、例えば本の挿絵作家とかになるよう言われて育ちました。姉は女子美を受験して、高校から本格的にそっちの道へ進みました。一方私は反抗して、絵をやめて勉強したんですが、やっぱり絵を描いている時の時間を忘れてしまう感覚が忘れられなくて、結局自分で予備校を探して通わせてもらい、美大を受験しました。父はセミプロの写真家で写真好きが高じて自分の店を持ちましたので美術の方に進むのを応援してくれました。学費も高いし苦労かけたと思いますが、今では絵を描かせてもらったことを両親に感謝しています。
ーお姉さんからの影響は受けましたか。
家の中では私たちに同じように環境を整えてもらいましたが、明らかに姉の方がセンスも良くて才能がありました。でも私の方が絵に欲が深かったんです。彼女は漆作家をやっていて素晴らしい作品を作っていますよ。今でも色々手伝ってくれて、展示も協力してくれます。
ー昔はライバル、今は協力関係ですね。
ー武蔵野美術大学在学中はどのように過ごしていましたか。
大学では遊んでいてろくに絵を描いていませんでしたね。大学院に進むと、本当に絵が描きたい人たちが集まって「良い絵が1枚描ければ、他に何もいらない!」っていうテンションで、絵具まみれになって、アトリエに朝8時から夜中の12時までこもって描いてました。院生の特権でそういう使い方が許されたんですね。それで燃え尽きたのもあるのかもしれませんが、大学院を出てからはさっぱり描けなくなりました。
大学院を出た後は教材のイラストレーターをやったり、絵や工芸を教える非常勤講師をやっていました。部屋に画材はいつも広げてありましたが、土日にたまに描く程度。いつでも描けると思っていたし、描く気まんまんだったんですけど、いざ描くとなると何を描いて良いかわからなかったんですよね。そのままあっと言う間に10年くらい経ってしまいました。
働いて少しお金がたまると1人で貧乏旅行をしていました。リュックにはTシャツ2枚パンツ2枚、パスポート。旅先でもスケッチすらしませんでした。でも、今思えば描けない時に外へ飛び出して行ったのは最善の策だったように思います。日本にいて当たり前だと思っている常識が、あっという間にリセットされますから。絵を描くということは本来自由であるのに、こうでなくてはいけないという思い込みの足かせを外すことが今でも私の一番の課題なので、同じスタンスが助けになります。
そのあと結婚して子供ができたら、本当に少しも描けない時期が来ちゃったんです。
小さいお子さんがいても意欲的に制作してらっしゃる方いますよね、すごいと思います。私の場合、子育てに追われて時間はうまく作れませんでした。そうしたら、むしろすごく描きたくなってきて。
ー再開されるきっかけになったのはファイロ君の言葉だったそうですね。幼い頃のファイロ君が「奴隷」という言葉の意味を知って、「お母さんみたい」と。
大学院修了製作「我々はどこから来たのか」「我々は何者か」「我々はどこへ行くのか」の3部作の内の1作(タイトルはゴーギャンの作品より)。
そうなんです。子供の言うことって裏がないので刺さりますよね。
子どもがある程度大きくなった頃、夫が1か月くらい子供たちを連れて実家の英国へ帰省をしてくれたんです。そうしたら急に自分だけの時間ができて。「今なら絵が描ける!」と思いました。そこからはずっとライフワークとして描いています。
再開してからは、絵を描くことが完全に生活のプライオリティで、気持ちの上でベクトルは全部そちらに向いてます。子どもたちに対しては「とにかくお母さんは絵を描きます。家事とかは手を抜くけど許してね」って思ってますね。
ー最初は4年前にタグボートのIndependent Tokyoに出展していただいて、そこからのご縁ですよね。
そうですね。制作を再開したのはその一年前です。それからは毎年参加してます。Independent Tokyoは全国からアーティストが集まって、エネルギッシュで圧倒されますよね。いろんな人と話せて面白いです。でも、自分の作品の横に立って、人に説明するのは苦手です。
ー先ほど、作品についての文章の話をしたときもそうでしたが、小木曽さんのスタンスとして、作品以上のことは言いたくないというところがあるように感じます。
作品そのものを見てもらいたい、という思いはありますよ。でもブースを回って人の解説を聞くのは大好きです。
ー作品の中でよく題材にされているお子さんは、今それぞれおいくつですか。
中学校1年生と高校1年生です。自分の子どもを描くのは、目の前に無料のモデルがいるからと言うのもありますし、変に気構えがないので描きやすいんですよ。でもいよいよ子どもも反抗期に入りまして「見られたくないけど無視しないで」みたいなめんどくさい時期なんですよ。なので一旦子どもたちを描くのをやめて去年は犬なんかを描いていた時期もありました。コロナ禍で高齢の両親にしばらく会えなかったので健康チェックのために散歩中の写真を送るように言ったんです。そうしたら母が毎朝実家のプードルの写真を送ってくるようになって。最初はほぼ何も写ってないようなひどいものだったんですけど、ちょっと褒めたらだんだん構図とか背景とか凝りだして、うまくなってきたんですよ。私、ほぼ引きこもっていますし、テレビも見ないので、すごく刺激の少ない生活をしているんですけど、毎日毎日朝から何枚もプードルの写真を見せられていたら頭の中がプードルでいっぱいになってしまって。
そんな時、義理の妹から例のメールが来て、「Blue House Project」シリーズを描くことを思い立ったんです。救われた気持ちでした。
ー同じ構図で何回も描かれている絵がありますね。
何枚か描くときは、単純にもっと描きたくなったからと言うのが多いですが、最初から複数枚描くと決めて描くこともあります。
ー構図を何回も検証しているということでしょうか?
大抵どんどん単純化していくので、これ以上描いたら何もなくなる、と言うところでおしまいです。追い込んで検証すると言うより、気持ちの赴くままに、ですね。
この絵、じつはもともと息子のファイロをモデルに描いていた絵なんです。
気に入らなくて、描きあがる度に全部消して下地にしてしまうので、最初に描き始めたときから7カ月くらいかかってしまいました。制作はファイロの部屋を借りてしていますから、ファイロは何回も描いて消してを繰り返しているのを見て知っているんですよね。それである日、「お母さんの絵って何回も白くなるよね。それ、無駄じゃない?」って言われたんです。
自分でも、それ、本当にその通りだな、と思って…。時間をかければかける程意地になって同じ構図で何度も描いていたんですけれど、そもそも構図が悪かったんですよね。なんとか完成させたんですけど、どうしても気に入らなくて。置いてあるのも忌々しいのでまた消してその絵はやめにしたんです。その頃にはこの「Blue Houe Project」のエプロンの構想があったので、消した上から描きました。
ー描き始めてからはキャンバス上で試行錯誤することが多いのでしょうか。
はい、今まではとにかく描かねばならないと思い込んで、ひたすら手を動かしていました。でもこれでいけるかなと見切り発車でいくとやっぱりダメなことが多くて、それで消しちゃってたんですけど。でも、ファイロに「無駄」を指摘されてから反省して、最近ではエスキースの段階で完成に近いところまで持っていってから描こうとしています。それでもうまくいかないことも多いんですけどね。
ー下に少し元の絵が透けてますね。
服の縞模様とか、よく見ると透けてますね。描きなおすときに、あ、ここを残したらいいんじゃないかな、と思ったんです。前に描いた絵を潰して上に違う絵を描くと、偶然の効果が得られることがあって、偶然って自分では生み出せないので面白いです。あながちファイロを半年以上も描いていたの無駄じゃなかったな、と思えました。
最近は、朝、掃除して制作する部屋に入ったら、絵の前にずっと立ったり座ったり、音楽を聴いたりお茶を飲んだり、タブレットのお絵かきツールで描いてみたり、紙にエスキースを描いてみたり。はたから見たら特に何にもしてないように見えるでしょうね。でもそう言った全部の時間が制作時間なんです。ファイロは「お母さんはいいよね、一日楽して絵なんか描いちゃって」とか言うんです。このご時世に絵なんか描いちゃって、たしかに贅沢ではあると思いますけど、私としては一生懸命真剣に取り組んでいるつもりなんですけどね。
ー緊急事態宣言のときはどのように過ごされていましたか?
緊急事態宣言が出て、最初は私もこれは大変だと思いましたけど、平常時だって引きこもってますから普段とあまり変わらなかったんです。
コロナ禍でいろんなことに対して本当に有難いな、と感じるようになりました。健康って有難いな、とか、人との関わりって有難いな、とか。学校や給食も有難いです。休校だと絵を描く時間が減りますからね。そう言う意味で以前より幸福感上がったんじゃないかな。
ー絵を描かない時期を経て、今では精力的に制作されていますね。その原動力は何でしょうか。
描いていて、必ずしも楽しくはないんですよ。どちらかというと苦しいかな。一人っきりで不毛な作業が続いたり、よく描けたと思っても売れなかったりしますから。この作品も、ずっとイーゼルの上に置いて考えたり描いたりしていましたけど、7カ月かかってますから、もし時給計算してしまうと…大変なことになりますよね。でも時間を掛けた、とか頑張った、とかは作品には全く無価値なことですから、絵と経済的なことは、私の中では全然結びつけられないし、ある意味本当に「無駄」なことなのかもしれません。でもとに角何とかしていい絵が描きたいんですよね。いい絵が描きたいだけ、なんていうと奥ゆかしく聞こえるかもしれませんが、強欲なことです。一生かかっても上手くいくか分からない難しいことですが、それだけやりがいのある素晴らしい仕事だと思います。
私が学生の時に、アメリカ抽象表現主義の美術評論家であるクレメント・グリーンバーグ氏が講義をしに大学に来たことがあるんです。色々なアーティストの解説の後、サイ・トゥオンブリーのscribble(落書き)がなぜ「良い」のか説明できない、と言ったのを覚えています。あの著名な美術評論家が説明できないんだから、多分、良い絵がもつエッセンスが何なのかは明確には誰にも説明はできないのだろうと思ったんです。
だけど、例えばサイ・トゥオンブリーが残したような素晴らしい作品は確実に人の心を打ちます。
なので、私としても口で説明できないから絵を描いている、というか、描くことでしが多分答えが見つからないので、これはもう描くしかないのだと思って、毎日毎日ご飯を食べるように描いています。
なんか、…もっとかっこいいことが言いたかったんですけど。
スタッフの皆さんが優しいので調子に乗って長々と喋りすぎました。すみませんでした。