1975年、新潟県糸魚川市生まれ。2000年東京造形大学卒業、Zokei賞受賞。
写真を撮り、絵画的に構成した作品と、ある人物を四季を通じて撮り続け編集した作品を作ります。
「自分たちの出来事に対して何事も無かったかのように過ぎ去っていく季節、その残酷性と、無関心さゆえの寛容さに美しさを感じる」という作家の目を通して見た景色は、どのように映るのでしょうか。
佐藤弘隆 HirotakaSato |
ー作品を作り始めたきっかけはありましたか?
学生時代は版画作品を作っていました。銅版画です。その中でも写真製版という技法です。
父親のおさがりのフィルムカメラで撮ったネガフィルムを原稿にして、印画紙の代わりに、感光乳剤を塗った銅板に感光させて版を作っていました。
光が当たった所は硬化し保護され、当たらなかった所は感光乳剤が剥がれて銅がむき出しになります。その後、銅板を腐食液に漬けて、銅が溶けて凹んだ所にインクを詰めて、余分なインクはふき取り、版の上に紙を乗せてプレス機(上下に並んだ二つの横長のローラーの間に版を通すタイプ)にかけます。
卒業制作では1m×2mの銅版画作品を作ったのですが、余分なインクをふき取るのに時間がかかり1版刷るのに14時間くらいかかって、しかもその間にインクが乾き始めてなかなかうまくいかず、何度もやり直してやっとこさ刷った記憶は未だに忘れ難いです。
それで、卒業した後は、プレス機やその他いろいろな機材もアトリエもない、どうしようと思った時に、今できることで何か作ろう、写真で作品を作ろうと思い中判フィルムカメラを買ったのが、今に至る第一歩のように思います。
《明日の朝、山に登る》2005
ーアーティストを目指そうと思ったのはいつ頃ですか?
今から振り返ると、高校2年生の時に美術部に入ったのが最初のきっかけのように思います。
最初はバトミントン部だったのですが、美術の授業で習った油絵がうまく描けず、だけど教科書に載っていたギュスターヴ・モローやカミーユ・コローの絵に惹かれて転部しました。
当時は将来への不安感や、生まれ育った実家が日本海側の海の近くで、冬の荒れた日は、テトラポットに打ち付けるドーンという波の音や風の振動で家が揺れたりして、そうゆう時の胸がざわざわする感じが、作品を作る時の大元のように思います。
今になって、仕事と制作のバランスが取れるようになり、生活の中に制作が組み込まれて持続可能になって、やっと今アーティストと名乗っても良いかなと思っている所です。
《もっと深い雪を》2022
ー作風が確立するまでの経緯を教えてください。
今から20年位前、9.11のテロがあった年の秋に、長野県のある山で、旅行中の夫婦が乗ったロープウェーが外れて落下し亡くなったという事故がありました。
そのニュースを聞いた時、9.11のテロの多くの死がある一方で、日本で起こった事故による一組の夫婦の死が、ドスンと重く胸に残りました。
それで、旅行中の夫婦の写真を撮ろうと思い、栃木県の日光に行きました。
夫婦を見かけては声を掛けましたが、当然まずは不審がられてほとんど断られました。
心が折れそうでしたが二組だけ撮らせてくれた夫婦がいて、その夫婦にはインスタントカメラで撮った写真をあげました。でも、その時の写真は、どう見ても観光地で撮った夫婦の記念写真にしか見えず、しかも背景の入れ方とか微妙で、きっと本人達が撮るより下手だったと思います。作品になることはありませんでしたが、自分にとって大切なお蔵入りの写真です。それから、場所、時間、人物、年齢をもっと絞り込むようになりました。まさに、いつどこで誰が何をしている所か、作文の基本みたいですね。
《冬支度の前に》2022
ー作品を発表し始めたのはいつ頃ですか?発表するまでにどういった経緯がありましたか?
最初の個展は2000年です。大学在籍中に作りためていた版画作品を展示しました。
ですが、その頃の作品は伝えたいことよりも先に、いかに紙にインクをのせるかということに四苦八苦していて、技法に伝えたいことがのせられていないように感じていました。
それで、二回目の個展は写真作品になりました。母親のポートレートや私物、三面鏡等を撮った写真を展示しました。年を取るということをどう受け入れていくかをテーマにしていました。
今は技術と向き合う時間と、撮る対象と向き合う時間の折り合いがついたように感じています。色感は版画を作っていた頃を引き継いでいると感じています。
Independent Tokyo 2022 展示風景
ーアーティストステートメントについて語ってください。
私の作品の多くは、広々とした風景と男女やカップルがいる情景です。
限られた命の期間でやらなくちゃいけないこと、課せられていること、それが、うまくいったりいかなかったりの人間の時間と、自然の大きな時間の対比です。
明日どうなるかわからないのは、本来は事故にあった夫婦も自分達も同じで、そんなことをある男女の姿に託し、移ろう季節や風景の中で表現しています。
私達の出来事に対して何事も無かったかのように過ぎ去っていく季節、その残酷性と、無関心さゆえの寛容さに安らぎを感じます。
《このまま そっと息を殺して》2008
ー作品はどうやって作っていますか?技法について教えてください。
作品はフィルムカメラとデジタルカメラを使い分けていて、テーマを重く伝えたい時はフィルムカメラ、ドキュメンタリーで予測できない状況でスピードに対応したい時はデジタルカメラを使っています。
私はフィルムの世代だったので、やっぱりフィルムの色が好きです。
作品にする時はドラムスキャナーという専門の機器でスキャンしてデジタル化し、その後デジタル印画紙プリントでプリントします。フィルムはスキャンしてデジタル化しても色の重さが残っています。
作品によっては、例えば、人物は早朝、空は夕方撮って合成することもありますし、撮ってそのままの作品もあります。
ー作品制作で困難な点や苦労する点を教えてください。
野外で撮影するときは、撮影場所を見つける旅に出るのですが、この季節、この場所で、この時間に撮りたいって思うと、季節は一週間で変わっていき、自然光は持って10分なのに気づき、そこに向けてモデルをやってくれる方を探すのが難しいです。タイミングを逃すと次は1年後になります。
ー今後の制作において挑戦したいことや意識していきたいことを教えてください。
制作は、いくつか温めているイメージがあって、まず今できることから手を付けているのですが、大がかりなものや、難しいものは後回しになっていて、そういったものに挑戦したいです。
あるイメージを持ってモデルをやってくれる方を探すのですが、話していると、そのモデルさんの人生の方が、自分がテーマとしていることよりもずっと重く、多くを物語っていることがあって、結局は自分のイメージ通りの撮影をするんだけど、そう言ったモデルさんの話を心に留めておくようにしています。
小説家のマルグリット・デュラスさんが書いたエクリールという本の中で、私たちのまわりではあらゆるものが書いている、私はそれを見てとれるようにならなきゃいけないのよ、という一文があって、あっこれ良いなと思って、作品を作り始める時の心構えにしています。
作品制作中の作家 新潟県十日町市のブナ林にて
撮影機材(ストロボやバッテリー等)
Art Fair HAKATA 展示風景
佐藤弘隆 HirotakaSato |
私は、日本海に面した海の近くの小さな町で生まれ育ちました。
そこは、夕方から夜への移り変わりがドラマチックで、その色彩や、夜の海の黒い広がりが、私の美意識に影響を与えています。
私の作品は写真作品です。
絵画的に構成した作品と、ある人物を四季を通じて撮り続け編集した作品があります。
私達の出来事に対して何事も無かったかのように過ぎ去っていく季節、その残酷性と、無関心さゆえの寛容さに美しさを感じます。
【略歴】
1975 新潟県糸魚川市生まれ
2000 東京造形大学卒業_Zokei賞
【個展】
2000 版画展 (Gallery Natsuka,Tokyo)
2004 For Mother (Gallery Rocket,Tokyo)
【グループ展】
2000 Goka Soshina (Kanazawa Citizen’s Art Center,Kanazawa)
Corpus 17 (Gallery Place M,Tokyo)
2002 Escape Round (Gallery Mairo,Kanazawa)
2004 GEISAI #6_Rocket賞 (Tokyo Big Sight)
2006 GEISA I#10_山本現代,Girls Walker,Steady Study賞
2011 ひまわり展 (Minamisoma Public Library,Minamisoma)
2018 Shenzhen International Art Fair (Shenzhen,China)
2022 Independent Tokyo_タグボート特別賞、ヒロ杉山賞 (Tokyo Portcity Takeshiba)
【写真集】
2018 BABI (Self₋Published)
2022 “BABI de Boon”T-shirt designed by HARUNO (Self₋Published)